梅雨のたより

わたしは遠い熱帯雨林を夢見つつ、そこに暮らす人々の演奏を聞きながら梅雨の季節を過ごしています。家の近くの池から聞こえる蛙の声が、熱帯雨林の鳥や虫の声と完璧なハーモニーを作り出すこともありました。そんな音楽について書いてみようとするのですが、あまりに美しい音を言葉におきかえることができずに、ついペンとノートを置いてしまうのです。

 

今日はこれからわたしと、すてきな自然の音と熱帯雨林の音楽の世界を散歩してみてください・・・

 

熱帯雨林ではいつも雨が降っているわけではないのに、濡れている感じがすることがよくあります。シャワーのようなにわか雨や突然の雷雨が降りしきります。雨が降り始めると、濡れるより先にその音が聞こえてきます。それは頭上に広がる40~50メートルもの大きさの巨大な樹林の傘のおかげなのです。(中には60メートルにもおよぶ木もあります。今度木のそばを通る時にその大きさを想像してみてください・・・)森の中では、晴れているのか雨なのかを目で確かめられなくても、音で聞き分けることができます。虫の声、鳥の歌、森に生きる生き物すべての歌が変化します。

 

世界最大の熱帯雨林地域は、アマゾン河流域、コンゴ河流域、スマトラ半島、ニューギニア、その他の東南アジア地域に広がります。地球の総陸地面積のわずか7%ほどを占めているだけにもかかわらず、地上の動植物の4分の3が熱帯雨林に生息していると言われています。中央アフリカの熱帯雨林では、樹上にサル、ムササビ、キツツキなどが生息し、地上にはサイ、ゴリラ、ゾウ、シカ、ヒョウなどが生きています。もちろんその他の哺乳動物、鳥類、小さな昆虫なども無数に暮らしています。しかし不思議なことに、大きいものから小さいものまで、これらの生き物を森の中で見かけることはめったにありません。深い緑の葉陰にうまく身を隠しているのです。でもあなたが森で生まれ育ったとしたら、きっと動物たちがどこにいるかを察知し、どこへ向かうのかを聞き分けることができるでしょう・・・

 

世界で最高の交響楽団とコンサートホールはどこかと聞かれたら、(ボストン、ロンドン、ウィーン・・・?)わたしは熱帯雨林のリズム、数々の声、そしてハーモニーを聞いてみてくださいと答えます。歌や呼びかけあう声の数々が深く何層にも重なる響きを作り出します。さまざまな動物の声は昼から夜への時の変化を表し、森の言葉を理解できる人には、はっきりと時間の区切りさえ聞き分けられます。この環境音に対する自然の感受性は、形式的な音楽教育や訓練では決して得られないものです。森の中では音楽を「専攻する」のではなく、音楽に生きてそれを呼吸するのです。

 

たとえば、パプアニューギニアの熱帯雨林に暮らすカルリの人々には、水の音を表す言葉が驚くほどたくさんあります。(ここではそれらの内のほんの少しを紹介します。)
gololo ゴロゴロ  渦を巻く水の流れ
gululu グルル  高くしぶきを上げる滝の流れ
tubutubu トゥブトゥブ 泡立つ小川の流れ
kobokobo コボコボ  ポチャポチャと浅い流れに落ちる水音
bu ブー  岩場を流れる水がはねる音
fu フー  流れから湧き上がる細かい霧
流れから湧き上がる細かい霧の音を最後に聞いたのはいつでしたか?

 

人間が作る音楽は、自然の作りだす音楽にはどうしてもかないませんが、熱帯雨林に暮らす人々は、周囲の自然の音を真似するすばらしい技を持っているので、日々オリジナルの歌やダンスを創作して暮らしています。中でも変り種は、アマゾン河流域のガイアンに住むワヤピの人々の作品で、歌の中にクモやヘビの「声」の模倣が入っています。ここから先はアフリカのある熱帯雨林へみなさんを案内しながら、ピグミーの人々の暮らしと音楽について紹介したいと思います。

 

ピグミーの人々には、彼らの暮らす地域や話す言語によってトゥワ、ンブティ、バンベーレ、エフェとたくさんの呼び名があります。およそ2000年も前からアフリカの様々な土地で生きてきたピグミーの痕跡が発見されているそうですが、現在ではおそらく15万人ほどがコンゴ民主共和国(ザイール)、コンゴ、ガボン、カメルーン、ルワンダ、ブルンディの隔離された地域にのみ暮らしています。15万人というとたくさんのように思いますが、典型的なひとつの村の人口が100人を超えることはめったにありません。そこでは遊牧生活が営まれ、森で生き抜くために重要な住民同士の密接なコミュニケーションと助け合いが見られます。熱帯雨林が失われると、ピグミーの人々の将来も危ぶまれてしまうのです。

 

アフリカの他のエスニックグループと違って、ピグミーの人々は農業や牧畜業のために森を切り開いたりすることはありません。ピグミーの血をひかない(わたしたちも含めて)人々にとっては、森の奥深くに暮らすことはなんだか恐ろしいことのように思えます。太陽の光も届かず、ジメジメしていて、怖そうな昆虫がいたり、危険な動物がいたり、歩道や道路もなく、これといったはっきりした食べ物もなく、家や会社のない生活。それに夜中じゅう聞こえてくる何かがうごめいている恐ろしげな物音!

 

アフリカの人々でさえ、ピグミーは「プリミティブ(原始的)」だと考えることが多く、自分たちの農業や牧畜業のために彼らの森を侵略して土地を奪うことがあります。ピグミーの人々の体が小さめであることや、争いを好まない性質であることがさらに彼らを弱い立場に追い込んでいるようです。それでも彼らは争いを避けるために、自らを外界から隔離しようとするのではなく、反対に森の外の村々と共生の関係を築こうとしています。彼らは森で獲た肉や野生の植物を、生活の道具類や農産物と交換しにやってきます。近隣の村で話される言語を使い、町を自由に行き来し、小遣いの残りで町の飲み屋で一杯やって帰るピグミーの男たちもいるぐらいです!目的の品を手に入れて、町の生活も十分楽しんだら、彼らはまた森の奥へと帰っていきます。住処の近辺の食べ物が乏しくなってきたら、森の中の別の場所へ移動を始めます。

 

彼らの暮らしが森を乱すようなことは決してありません。熱帯雨林はそこに住む人々すべてに食物、衣服、住居を与えてくれます。たった一種類の木から、小屋を建てるための葉と樹皮がとれ、他にもベッド、衣服、皿やカップまで作ることができます。狩りや漁のための肉や魚は豊富だし、森の中にはベリー類の果物やナッツ、キノコやその他にもたくさんの野生の植物があります。彼らの信仰する宗教では、森に何かを求めるのではなく、森に眠る動植物を目覚めさせる歌を捧げるのです・・・

過去に出版された数々の本やテレビのドキュメンタリー番組では、ピグミーの人々の変わった生活様式に強調が置かれすぎていて、決まって「原始的な」という形容詞が何度も出てきました。わたしにはピグミーの人々ではなくて、わたしたちの方こそ無力でどんどん原始的になってきているように思えてなりません。電気や水道、電話(今や携帯電話)やコンピューター、スーパーにコンビニ、車やバスやタクシーや飛行機なしでは生きていけないのがわたしたちです。考えてみるとわたしたちは自分たちの教育や仕事、家を建てること、お金を管理すること、薬を処方すること、ニュースを報道すること、流行を伝えること、さらには休暇を楽しむ方法まですべてを誰か見知らぬ人に教わり、まかせきりの生活を送っているのです。そのことに文句を言いたいわけではないですが、今度「原始的な人々」についてのドキュメンタリー番組を制作する時には、カメラをわたしたちに向けてみてほしいなと思っています。日本人と熱帯雨林に暮らす人々が半年間、住居と言語とライフスタイルを交換するという企画があったら、最後まで生き残って感想を話してもらえるのはどちらの人々だろう・・・

 

ほとんどの人が21世紀の日常生活において、音楽は重要であると考えていると思いますが、現代の便利な生活のおかげで、音楽よりも騒音の方が増える一方のようです!本屋さんの雑誌コーナーを見ても、料理、裁縫、絵画、ハイキング、インターネット、スポーツカー、プロレスなどと並んで音楽もひとつの「趣味」となってきています。熱帯雨林には本屋さんも雑誌コーナーもありませんが、そこに暮らす人々は、周囲にあるすべてのものを見たり聞いたりすることで人生について学んでいきます。ここで紹介するピグミーの人々のお話は、ハッピーエンドではないのですが、森の音楽がどれほど大切なのかを物語ってくれるものです。

 

美しい鳥の歌の伝説
森の少年はとても美しい歌声に誘われ、その声がどこから聞こえてくるのか探しに出かけ、その鳥を見つけました。少年は鳥をつかまえ、餌をやろうとキャンプへ連れて帰りました。少年の父親は、鳥に餌をやることを嫌がりましたが、少年がどうしてもと言うので仕方なく餌をやりました。
次の日も鳥は歌いました。森中でもっとも美しい歌声でした。ふたたび少年は鳥に近づき、餌をやろうと家へ連れて帰りました。父親は昨日よりも腹を立てましたが、またもや少年にほだされて仕方なく餌をやりました。
3日目にも同じ事が起こりました。しかし今度は父親は少年から鳥を奪い取り、少年を追い出しました。少年がいなくなると父親は鳥を殺しました。森中でもっとも美しい歌声を持つ鳥を殺してしまったので、その歌も死んでしまいました。歌が死んでしまったことに絶望した父親は自殺してしまいました。大地に崩れ落ちて死んでしまいました。

 

どんな森でもそこには必ず鳥の歌声があります。東南アジアでもアマゾンでも中央アフリカでも、熱帯雨林に暮らす人々はそれぞれの美しい環境を映し出すような音楽をたずさえています。ピグミーの人々はそのすばらしい声を始めとして、シンプルなハープのような弦楽器や木の笛、カリンバ、ドラムなどを使います。彼らの音楽はさぞ「自然な」音だろうと想像できますが、実際に彼らの演奏の録音を聞いてみると、古い料理用の鍋や金属製の浴槽(メイド・イン・チャイナ)をひっくり返したものをたたく驚くべきパーカッションのソロがあったりするのです!わたしの好きなピグミーの楽器は、実際にお目にかかったことはないのですが、どこかで読んだアースドラム(地球の太鼓)と呼ばれるものです。
森を歩いていると、地面に今ではふさがっている古い穴のあるところがあり、その上をはねたり飛んだりするといろんな音がするそうです。まさに地球の声!もっとユニークなのは、女性たちが川で水浴びや洗濯をしながら、流れの表面をリズミックにたたいてつくる音楽というのもあります。彼女たちは、水の上を手で形作るカップでたたき、角度や強さを変えながら驚くほどさまざまな音を出すことができるのです。(今晩お風呂に入るときにちょっと試してみてください・・・)

 

ピグミーの人々が西洋で話題になったのは、彼らのすばらしい歌声についてでした。彼らには即興のコーラスに何層ものエコーを響かせることのできる魔法があるようです。彼らの声は深く周囲の環境と共鳴して、それがふたたびエコーを作ります。そのスタイルはアフリカの他の地域でも、おそらく世界中どこにも見られないものです。楽しい遊び歌(子供のゲーム)、モラルや心の教育の歌、結婚についての教えの歌、狩と動物の生活スタイルについての歌などがあります。それから儀式と祈りのための歌があり、森が目覚めるのです・・・「メッセージ」を伝えたい時、人々が集まる時にはいつでも歌があります。

木琴ピグミーの人々は、どんなに奥深く森に分け入っても、キャンプからどんなに遠く離れても、夜がどんなに暗くなろうとも、決して道に迷ったり恐怖を感じたりすることはないと言われています。彼らのくっきりとした透る声が森に響きわたり、お互いに名前を呼び合い、どこにいるのか、何をしているのか、これからどこへ行くのかを確認しあうのです。森の生き物すべてがそれを聞き、ささやき、呼び合い、歌い、応えて何層も何層も音を重ねていくのです。調子外れもいませんし、音を外すものもありません。

 

熱帯雨林ではいつも雨が降っているのではないけれど、そこにはリズムと声とハーモニーがあり、永遠に美しい歌が聞こえます。